あそけし

メイドブログ

回想

微睡みのなかにある意識はその報復として視神経と後頭葉にある密接な繋がりを絶とうとあらゆる悪巧みを企てているようだ。脳髄が揺らめいて頭部がそれ自体で固有の重力を獲得したかのように振る舞い、歪められた視界に半円の天板と痙攣する二つの部分が映り込むのだが、恐らく後者は私の太腿なのだろう、つまり私は今着席しているのであって、してみれば私の頭蓋に狙いを定め今にも貪り食らわんと涎を垂らしているであろう背後の威圧的な存在感にも説明がつくし、何より馴染みの身体感覚を頼りに咄嗟の想像を巡らせてみればそう考えるのがもっとも理にかなっていたのだろう。物音一つ立てないようにじっと静かにしていると、秒針を刻む音がするのに気がついた。重々しく鋭い音の爪が静寂が切り裂き、引き延ばし、無造作に放り棄てられている。その傷痕から鮮血が迸り、滲み出て、それは普段我々の耳には残響として認識されるところのものに他ならないのだが、その重く沈んだ響きからは時おり断末魔の如き悲痛の叫びが聞こえてきた。それは置いておいて音自体に意識を集中する。次に聞こえた時点を始点とし、感覚上の1秒を刻んだ後に続く響きと私の想定するそれが合致しているのかを確認するのである。カチ ここが1。次に....「2」カチ 声と針音が重なった。同様のやり方で9まで進み、悠長な暇つぶしは恙無く終えられるように思われたが、予想に反して最後の針音はどうしてか極端に早い段階で発せられ、一種の無防備状態にあった私は平静を保てなくなり微睡みと意識の混合は半ば強制的に引き剥がされた。視界も思考も幾分明晰になり、まず周囲を確認するべく顔をあげるとやや古めかしくも見事な木目調のテーブルがあり、その上を黒いもやのようなものが漂っている。密かな炭の音楽の淵源を目で追っていくと、私にほどなく近い、右斜め前のある場所に到達した時点でそこに沢山の本が出現した。先の事柄によって精神の粉砕が帰結されてしまった今、眼前の不可思議に一々驚嘆と好奇の眼差しを返しているような余裕は持ち合わせていなかったのだが、訝しみつつもそれらのうちの数冊を手繰り寄せてパラパラとページを捲り一冊ずつ目を通していった。数多の文字が次々に流れていく。文字という記号、我々の言語体系はある具体的な事柄を表す観念の言葉と、それらを結びつける働きをする微弱な静電気であるところの関係の言葉とから成っている。私はつい最近精神衰弱の泥沼に嵌ってしまい、そこから抜け出すことも出来ず、全ての脆弱性を曝け出しているような状態にあることをこの上なく自覚しているのだが、弱められた精神にあっては認識力の行使もままならず、目下の話題に関して言えば静電引力が正常に働く仕方を認識できていないという気がしてならない。豊富なニュアンスや趣向といったものが取り去られた、空しき死んだ線分がただそこにあるだけなのだ。だから今は記憶と手癖を頼りにこうやって書いているけど、それは在りし日の残渣であり、日に日に悪化の一途を辿っていってるような気がしてそれがまた不安を増幅させる要因となっている。こんな状態では言葉のうちに表される全てのものに潜在する威力を認識することなんて出来ない。失意のうちに閉じられていく本の沈黙する影のことが思い起こされ、それは布団に入る前に見た最後の光景だった。そのような回想に浸っているとマーカーで赤線が引かれた箇所が目にとまったので声に出して読んでみた。「ヌミキウスよ、何ものにも驚かないことこそが人を幸福にし、また幸福に保ってくれる殆ど唯一のものなのだ」それはあるローマ人の書簡であるらしかった。状況に照らして、その赤線は私を皮肉る意図をもって引かれたであろうことは明白だった。残念なことに私がこの先禁欲主義的な思想に靡くことは万一にもありえないし、古人もこう言っている、「今も昔も驚くことを通じ、人は思索の営みを始めるのである」と。次の本を手に取って読み進めていくと「彼は善人であると見倣されるよりも善人であることを望んだのです。」という一節があった。この言葉には見覚えがある。確か−−−−−−−そこで不意に声が掛けられて記憶の参照は中断された。「ご注文をお願いいたします」メニュー表が手渡された。ウェルダンのビーフステーキやペペロンチーノの他見たことのない横文字の羅列から和食や中華料理も取り揃えられていた。隅々まで目を通してそれらを順々に全て暗唱できるようになった。もう不要となったメニューを机に伏せ目を閉じて熟考する。おもむろに目を開けて窓の方を見やる。勢いよく差し込む陽の光は、夏の近づくある日に帰される奇蹟である。再び目を固く閉じて沈思黙考する。遠くに峻厳な冬の環境を思わせる遠吠えが聞こえたので、声の主を確認しようと窓の方を見た。窓の外は凍てつく夜の闇で満ちていて、外の様子はよく確認することは出来なかったがどうやら吹雪いているようであった。「お客様、随分と長く考えられていたようですが」ウェイトレスの装いをした煤が口を開く、「ご注文はお決まりになりましたでしょうか?」少し間をあけてもったいぶった口調でこう返す、「地上のあらゆる食物は私に吐き気を催させるのです....」私の態度に業を煮やしたウェイトレスは不満げに暫く私を睨みつけたのち、小声で悪態をつきながら消えていった。悪意の煤が消失し張り詰めた空気が緩んでいくのに伴って地響きが起こり、部屋が崩れ始めた。「はい勝ち。このことは戦績として計上させてもらうから」とても清々した。心は僅かながらも晴れやかになり、今となって思い返すと一連の出来事がひどく滑稽で子供じみたことのように感じられ、途端に笑いが込み上げてきた。その衝動はもはや留まるところを知らず、私は腹を抱えて大笑いした。もう微笑むことは出来ないというのに。続けて手に取った書物はホラティウスの諷刺詩だ。あなたに向けて、ある一節に赤線を繰り返し執拗に引いておこう。「なぜおまえは笑っているんだ。名前を変えれば、その話はおまえのことを語っているのに。」