あそけし

メイドブログ

日記 2/22

10時ごろに起床。全身が寝起きの虚無感で埋め尽くされていたが、散歩するために必要な気力をなんとか絞り出し、後は四肢を動かすための動力が必要だとなったが、こっちは用意することが出来なかった。窮余の策としてホバー移動で外へ繰り出したのが正午過ぎ、空はどんよりとしていて、地上付近には重く淀んだ大気が巣食っていた。それは天上の人々が死に瀕して、苦痛に歪む唇の隙間からもれ出る喘鳴と瘴気なのである。天球は分厚い雲に覆われ、弱い雨と異様な圧迫感を伴う空気の流れが長い間地上に降り注がれていたが、その間にも雲はどんどん発達していって超最強究極大奈落低気圧へと成長した。すると私を含めて周りにいた人はみるみる小さくなっていってしまった。尋常ではない圧力がかかり、身体が圧縮されてしまったのである。私はというと呑気に「虫から見た景色ってこんな感じなのかな」とか考えていたが、二度と元には戻れないのだと悲観した一部の人達が「もう終わりだ」「こんな姿で生きていけない」「ここで皆死ぬべきなのだわ」と口々に連呼し、アサルトライフルのようなものを無差別に乱射し始めた。私はというと、たまたま持ってきていた「生誕の災厄」が盾となり、直接被弾することは免れた。優れた書物は死をも回避させることが可能なようだ。表題からは想像もできない事態だが...

数発の短い銃声がした後、ようやく騒ぎは終息したようで、とりあえず状況を把握するために立ち上がった。辺りを見回すと、そこかしこに力を失った人体が転がっており、中には生前の面影を完全に失っていたものもあった。それらの傍に駆け寄り揺さぶっては必死に生存を呼びかける声、嗚咽混じりの怨み節や親縁者らしき人々の慟哭が谺していたが、どす黒い雲の障壁に妨げられて、人々の嘆きが天まで届くことは無かった。そもそもこの暗雲こそ天上の民の元に訪れた災いと死の結果するものではなかったのか。雨は次第に激しさを増していき硝煙の匂いや道路上の血しぶきなど騒擾の痕跡は綺麗さっぱり洗い流され、呆然と立ち尽くす人々の頬をつたう雫も、もはやどちらであるのか判然としなかった。雨はまだ降り続いている。余談になるが、この事件については特に報道もされておらず、家人や知り合いも全く知らないと言う。もし当事者の方やこの事件のことを覚えている方がいらっしゃったら連絡して頂きたいです。


で、犠牲者の亡骸を死体袋に詰める臨時のボランティアに参加した。事後の回収作業が円滑に進まなければ、亡骸の腐敗が進行してしまう。事件現場から私の家はそんなに離れておらず、ひとたび死体が湿っぽい匂いを放つようになってしまえば、家の中の空気まで汚染されてしまうかもしれないという懸念があった。今になって思い返してみると、理由は知らないが死体袋にlogoutとプリントされていたような気がする。作業が一段落ついた頃、片腕の無い大男からお礼にとヤニソアという見たことも聞いたこともない飲料を貰った。無色透明で、お世辞にも美味しいと言える味ではなく鉄ととうもろこしを混ぜたような奇妙な風味がしたが、(後でgoogleでヤニソアと調べてみたが、何某かの申し立てがあったらしく一切の情報は削除されていた)せっかく貰ったのだしな〜とえづきそうになりながらもなんとか飲み干した刹那、夕方を告げるサイレンが遠くの電波塔から大音量で流れ始め、その音圧によって頭上で渦を巻いていた雲の群れは北の方角へと押しやられていき、段々露わとなった夕日が川の水面に金色の影を落とした。逆光で黒一色となった建造物は黄昏時の暗がりと同化して溶けてゆき、死体袋の山もいつの間にか消失していた。陽の熱で息を吹き返した天使に「今ってーー(聞き取れなかった)ですか?」と尋ねられた。重要な部分が聞き取れなかったが、恐らく日時を知りたいのだろうと思い「2月22日です。2023年の。もちろん、西暦です....」そんな感じで答えた。すると天使の開いた口から、夥しい数の蝶が飛び出したかと思えば、空の彼方へと羽ばたいて行った。舞い散る鱗粉が残照の空に一筋の煌めきを描いた。その神秘的な光景を前にして私はしばしの間恍惚の境地に入っていた。自然と溢れ出る涙は歓喜によるものだったのだろうか?いや、恐らくは畏怖によるものだ。というのも夜空の向こう、宇宙空間のある一箇所から発せられた、根源的な殺意の束が私を捉えたのを感知したからだ。戦慄する私をよそに天使は頭を左右八の字に振りながら糸を吐き始め、最終的には自ら巨大な繭となった。偉大な神秘の蛹化を見届けた後はすかさずその下へ潜り目を閉じ耳をふさいだ。片や地球外の禍々しい者どもの視線を切るために、片やますます大きくなるサイレンの音から鼓膜を保護するために。
世界が激しく振動し脳を直接鷲掴みにされているような感覚に襲われる。身体の内側が次第に外側へとめくれ返っていく。自我と外界との間を決定的に区別する何かが崩壊し、水面に垂らされた絵の具のように混ざり合っていく。薄れゆく意識の中、ある文字列が頭の中を駆け巡った。
【log-out[名]コンピューターの利用を終了したり、コンピューターネットワークとの接続を切ったりすること。複数ユーザー用のシステムに対し、端末から使用を終了することも指す。】

 


.............気づけばみんな元通り、私たちの縮尺は正常だし、今しがた起きた出来事の痕跡も何一つ残っていない。
もうそろそろいい時間だったので帰ることにした。