あそけし

メイドブログ

日記 6/23

毎月第三木曜日には習い事がある。これまでの経験則が教えるところ、第三週の木曜日というのは大体20日前後に訪れるものだが、去る昨日の6月22日は月始まりから数えて四回目の木曜日であったのだ。「今日はそれ(習い事)やって無いですね」「はにゃ?第三週の木曜日が開講日ですよね?」「第三週の木曜日は先週の木曜日です」受付の人は驚いた様子だった。もちろん私の方が驚いていたのだが。その後川沿いをあてもなくお散歩してたらある橋に差し掛かったところで唐突に抑えがたい激憤に駆られ、「四つ裂きの刑が執行されるとき、そこで初めて現代的個の概念が芽吹くのだが、それは機序こそ前時代の供犠システムと異なるとはいえ、双方の本質は贖罪とその犠牲者の選定ということで一致している」というような文面が次々に頭の中に流れ込んできたからそれをもうちょっと広げてブログの記事にしようと思ったけど、その時はただそのまま歩いていたい気分だったからお散歩を継続した。別に曜日を間違えてしまったことがその誘因となったわけではない。いつものよくある理由無き憤慨である。ところで激情というのは大体一過性のものであって、河原を歩いている間はこの胸中に湧き立つ憎怨を如何様に放出してやろうか、さもなくば絶対に死んでやるというある種強迫的な観念が殺風景な河原を戦場へと変化させたが、そこはあらゆる危険に満ちていたために地を蹴る両足にも自然と力が込もった。それから少し進んで街中に入った途端、息巻いていた気持ちはまるで先ほどの河原に置き去りにしてきたかのように消え失せた。朝から降り続いていた小雨も止み交互に片足を前に繰り出すごとに適度な疲労感を感じるようになった頃、携帯の歩数計は20000に近い数値を示していた。単純に距離に換算すると15km強は歩いたことになるだろう。4時間ぐらいは歩き続けていたからまあそんなもんかというところではある。もっとも私の歩幅を考慮すると実際にはもう少し短い距離であったのだろうが。とりわけブログに大切なのは鮮度と勢いである。いや、大切なものは何も無い。また川沿いを歩きながら思索に耽る....というような状況から文学性とかいう甚だ気色悪い概念と結び付けられてしまうようなことが万一にもあったら困るので思うところを記しておこう。それは山や海など地球上のどこにおいてもあり得たことだし、あるいは狭苦しいトイレの中を延々と時計回りに周回するうちに心の内に浮かんでくる一つの光明、その素朴なリズムもまた純粋に生き生きとした象徴が展開される契機となり得る。儚さは死んだ表現形式であり、高尚さはそれ自体凝固して闊達な新陳代謝を阻害する悪性腫瘍のようなものであると。ただ差し措きそれはどうでもいい。今ちょうど眠たくなってきているところだから。ツイッターではよく「寝る」とだけ呟くことが多いが就眠前に長々と撒き散らすのも悪くはない。