あそけし

メイドブログ

覚書

ここ最近のことを振り返ると、私の脳髄は何か病毒に冒されていたのではなかろうかという疑念が忽ち頭をもたげてくる。直情径行甚だしく、そうあるべき原初の状態、つまり倦怠と衰弱のなかでいつ訪れるとも知れぬ破滅をのみ望み待つあの根源的な倫理的態度に背いては外に出て、そこかしこに無造作に転がっている関係という器の中身を糜爛した腫物と取り替えた後であたかもそこに地獄という観念を見出したかのように感嘆し、喜ばしい発見に酔いながら手を打ち叩いて独り合点する、こんなことは馬鹿げている!とせせら笑い、己の思考について何かしらを捉えた気になっているならそこに既に通常の意識的生活を行う限りでの、一時しのぎではあるが有効な解決策、すなわちあらゆる陶酔と驕慢が存在し、赤みを帯びた芳香を放っているではないか。自意識とは要するに舞台の上で演じられる酸性粘膜と痙攣発作の如き振る舞いであって、それは魂の毒殺、破傷風、首枷、断末魔の苦悶、僭称、哄笑、蟻食、太陽、自己破壊、強姦、随喜狂乱、惨劇、一者との関係性における必然に対置される被造物それ自体としての偶有性の上に打ち建てられたある種の生の修辞技巧に過ぎないのである。そしてこのような虚構の一体どこに本質的なものが見出されるというのだろう。幸いにも自身に対するしかるべき敬意が私には欠けている。純潔のまま死んだ見知らぬ身体による陰謀が、熱に浮かされて取った尋常ならざる行動の数々を巡っており、同意と埋葬の問題を提出している。そして私はまた磔にされた人間の感覚を取り戻しつつあるのだ。夕べの予言をたずさえてコリントスより来たる使者の我が巻毛をほどかんことを。