あそけし

メイドブログ

赤ちゃん🐊とマケドニアの偉大なる専制

胃と腸の間隙を縫って絞殺された姉妹の墓が建てられた日の夜、メイドカフェ「地球」はマケドニア王国の統治下にあり、生命の負債を一身に負った墓石はその脆弱性の故に重金属にも似た凶々しい閃光を周囲に放っていた。墓石を取り囲んで銀色の病を声高に誦する司祭と野次馬たちがいて、それらの影の最も強いところには淫売に耽っている半人半鰐の面々が認められたが、その一幕は根源的な抑圧からの解放という印象を放ち、局所化された激昂が麗かな春の風へと転じることはもはや叶わぬことなのであるから、司祭が大事そうに抱えている竪琴の驚嘆すべき再配列によって歓びの調子に満ちた一幕の、あのかなり皮肉をきかせた痛烈な会話劇の一々に悲壮な合唱の波が呼応している次第である。つまり彼らは春の嵐の最も戦慄すべき局面に囚われており、各々充てがわれた役割を演じているように思えるあの見事で大胆な身振りは、実際のところ、窒息の可能性をまえにして種々の生命がとるあの無駄なもがきにすぎないのだ。熱狂と倦怠が地上に花開き、不可解な重力と無呼吸が跳び回るのを可能にしているのは春の嵐によってなのである。他方空には鳥たちがいて、地上の様子を、肉の埃が舞いあがるさまを眺め、我関せずとただ冷めた眼差しを注いでいる。奇妙なことに、それらは遠くから見ると疑いなく鳥そのものなのだが、群れの一匹を注意深く観察すればするほどに文字通りただの円柱形であるような印象を受ける。もしこれが単なる幻覚でないのだとしたら、悠然と空を飛ぶあの円柱形は群れごと死刑を宣告されたも同然であり、次いであの誘惑と微かな嘔き気がやってくるのだ。甘い香りの立ち込める湿地帯に降り立ち、矩形に折り畳まれた小さな足で適切な体勢を維持して、連続する三角錐の錨が別れの挨拶を描いて桃色の蜜のなかに投げ込まれようものなら、たちまち無毛の飢えた狼人間がそれらを喰らい尽くすだろう。ともかく実際には狼人間の体毛はその身体の内側にびっしりと生え揃っており、その鋭い毛先が折にふれて諸器官を刺激し、赤血球を愛撫する度に虚無感と希死念慮は耐え難いものとなっていくばかりで、日々の奉仕業務に支障が出るのは当然だと雇われメイドの誰かが叫んだ。それに連帯して大規模な開拓事業が起こされ、醜怪な物の怪の類の反復喃語に学ぶところ多しと知れば革命家はこぞって皆死んだふりをする。後に続いて引き起こされた奇蹟は曲がりくねった幾筋もの支流からなっており、浄土より阿鼻に至るまでの非合理的な戦慄の感情が私の頭蓋に運び込まれるのを目睹した人々は恐れおののくと同時に強烈に魅了されてしまうがあまり自らの舌を竜舌蘭で切り裂き、味蕾に蓄えられた豊かな知的好奇心を未来の計画へと充てるのだが、それは世の初めから定められている。従って一連の経過は合理的なものの範疇に属しているのだ。あたまのなかの宮殿に住む思い姫は不明瞭な言語からなる書簡を綴り、コデックスの象徴的な図像に色を重ねることで一日の職務を終えるが、暗示と比喩に富んだこれらの区域の全方位に向けて足踏みをする勇気もなく、またも詩人は例外なく皆死んだふりをするに違いない。その間にも脈打つ心は絶え間ない侵食を受けており、罪の意識から虫唾の辺りに太陽の死骸を隠そうとするのだが、当の太陽は心地よい痙攣を夢見ているので数億年の間は殺されたことに気づかない筈だから一応安心である。また司祭と野次馬達の感覚鈍麻には驚かずにはおれない。見えざる生殖の技法によって彼らは既に鰐の子を懐胎しており、死後なおもまだその光輝を増す太陽によって照らし出されている腹部の線がかすかに歪み始めているというのに。

日記 6/23

毎月第三木曜日には習い事がある。これまでの経験則が教えるところ、第三週の木曜日というのは大体20日前後に訪れるものだが、去る昨日の6月22日は月始まりから数えて四回目の木曜日であったのだ。「今日はそれ(習い事)やって無いですね」「はにゃ?第三週の木曜日が開講日ですよね?」「第三週の木曜日は先週の木曜日です」受付の人は驚いた様子だった。もちろん私の方が驚いていたのだが。その後川沿いをあてもなくお散歩してたらある橋に差し掛かったところで唐突に抑えがたい激憤に駆られ、「四つ裂きの刑が執行されるとき、そこで初めて現代的個の概念が芽吹くのだが、それは機序こそ前時代の供犠システムと異なるとはいえ、双方の本質は贖罪とその犠牲者の選定ということで一致している」というような文面が次々に頭の中に流れ込んできたからそれをもうちょっと広げてブログの記事にしようと思ったけど、その時はただそのまま歩いていたい気分だったからお散歩を継続した。別に曜日を間違えてしまったことがその誘因となったわけではない。いつものよくある理由無き憤慨である。ところで激情というのは大体一過性のものであって、河原を歩いている間はこの胸中に湧き立つ憎怨を如何様に放出してやろうか、さもなくば絶対に死んでやるというある種強迫的な観念が殺風景な河原を戦場へと変化させたが、そこはあらゆる危険に満ちていたために地を蹴る両足にも自然と力が込もった。それから少し進んで街中に入った途端、息巻いていた気持ちはまるで先ほどの河原に置き去りにしてきたかのように消え失せた。朝から降り続いていた小雨も止み交互に片足を前に繰り出すごとに適度な疲労感を感じるようになった頃、携帯の歩数計は20000に近い数値を示していた。単純に距離に換算すると15km強は歩いたことになるだろう。4時間ぐらいは歩き続けていたからまあそんなもんかというところではある。もっとも私の歩幅を考慮すると実際にはもう少し短い距離であったのだろうが。とりわけブログに大切なのは鮮度と勢いである。いや、大切なものは何も無い。また川沿いを歩きながら思索に耽る....というような状況から文学性とかいう甚だ気色悪い概念と結び付けられてしまうようなことが万一にもあったら困るので思うところを記しておこう。それは山や海など地球上のどこにおいてもあり得たことだし、あるいは狭苦しいトイレの中を延々と時計回りに周回するうちに心の内に浮かんでくる一つの光明、その素朴なリズムもまた純粋に生き生きとした象徴が展開される契機となり得る。儚さは死んだ表現形式であり、高尚さはそれ自体凝固して闊達な新陳代謝を阻害する悪性腫瘍のようなものであると。ただ差し措きそれはどうでもいい。今ちょうど眠たくなってきているところだから。ツイッターではよく「寝る」とだけ呟くことが多いが就眠前に長々と撒き散らすのも悪くはない。

回想

微睡みのなかにある意識はその報復として視神経と後頭葉にある密接な繋がりを絶とうとあらゆる悪巧みを企てているようだ。脳髄が揺らめいて頭部がそれ自体で固有の重力を獲得したかのように振る舞い、歪められた視界に半円の天板と痙攣する二つの部分が映り込むのだが、恐らく後者は私の太腿なのだろう、つまり私は今着席しているのであって、してみれば私の頭蓋に狙いを定め今にも貪り食らわんと涎を垂らしているであろう背後の威圧的な存在感にも説明がつくし、何より馴染みの身体感覚を頼りに咄嗟の想像を巡らせてみればそう考えるのがもっとも理にかなっていたのだろう。物音一つ立てないようにじっと静かにしていると、秒針を刻む音がするのに気がついた。重々しく鋭い音の爪が静寂が切り裂き、引き延ばし、無造作に放り棄てられている。その傷痕から鮮血が迸り、滲み出て、それは普段我々の耳には残響として認識されるところのものに他ならないのだが、その重く沈んだ響きからは時おり断末魔の如き悲痛の叫びが聞こえてきた。それは置いておいて音自体に意識を集中する。次に聞こえた時点を始点とし、感覚上の1秒を刻んだ後に続く響きと私の想定するそれが合致しているのかを確認するのである。カチ ここが1。次に....「2」カチ 声と針音が重なった。同様のやり方で9まで進み、悠長な暇つぶしは恙無く終えられるように思われたが、予想に反して最後の針音はどうしてか極端に早い段階で発せられ、一種の無防備状態にあった私は平静を保てなくなり微睡みと意識の混合は半ば強制的に引き剥がされた。視界も思考も幾分明晰になり、まず周囲を確認するべく顔をあげるとやや古めかしくも見事な木目調のテーブルがあり、その上を黒いもやのようなものが漂っている。密かな炭の音楽の淵源を目で追っていくと、私にほどなく近い、右斜め前のある場所に到達した時点でそこに沢山の本が出現した。先の事柄によって精神の粉砕が帰結されてしまった今、眼前の不可思議に一々驚嘆と好奇の眼差しを返しているような余裕は持ち合わせていなかったのだが、訝しみつつもそれらのうちの数冊を手繰り寄せてパラパラとページを捲り一冊ずつ目を通していった。数多の文字が次々に流れていく。文字という記号、我々の言語体系はある具体的な事柄を表す観念の言葉と、それらを結びつける働きをする微弱な静電気であるところの関係の言葉とから成っている。私はつい最近精神衰弱の泥沼に嵌ってしまい、そこから抜け出すことも出来ず、全ての脆弱性を曝け出しているような状態にあることをこの上なく自覚しているのだが、弱められた精神にあっては認識力の行使もままならず、目下の話題に関して言えば静電引力が正常に働く仕方を認識できていないという気がしてならない。豊富なニュアンスや趣向といったものが取り去られた、空しき死んだ線分がただそこにあるだけなのだ。だから今は記憶と手癖を頼りにこうやって書いているけど、それは在りし日の残渣であり、日に日に悪化の一途を辿っていってるような気がしてそれがまた不安を増幅させる要因となっている。こんな状態では言葉のうちに表される全てのものに潜在する威力を認識することなんて出来ない。失意のうちに閉じられていく本の沈黙する影のことが思い起こされ、それは布団に入る前に見た最後の光景だった。そのような回想に浸っているとマーカーで赤線が引かれた箇所が目にとまったので声に出して読んでみた。「ヌミキウスよ、何ものにも驚かないことこそが人を幸福にし、また幸福に保ってくれる殆ど唯一のものなのだ」それはあるローマ人の書簡であるらしかった。状況に照らして、その赤線は私を皮肉る意図をもって引かれたであろうことは明白だった。残念なことに私がこの先禁欲主義的な思想に靡くことは万一にもありえないし、古人もこう言っている、「今も昔も驚くことを通じ、人は思索の営みを始めるのである」と。次の本を手に取って読み進めていくと「彼は善人であると見倣されるよりも善人であることを望んだのです。」という一節があった。この言葉には見覚えがある。確か−−−−−−−そこで不意に声が掛けられて記憶の参照は中断された。「ご注文をお願いいたします」メニュー表が手渡された。ウェルダンのビーフステーキやペペロンチーノの他見たことのない横文字の羅列から和食や中華料理も取り揃えられていた。隅々まで目を通してそれらを順々に全て暗唱できるようになった。もう不要となったメニューを机に伏せ目を閉じて熟考する。おもむろに目を開けて窓の方を見やる。勢いよく差し込む陽の光は、夏の近づくある日に帰される奇蹟である。再び目を固く閉じて沈思黙考する。遠くに峻厳な冬の環境を思わせる遠吠えが聞こえたので、声の主を確認しようと窓の方を見た。窓の外は凍てつく夜の闇で満ちていて、外の様子はよく確認することは出来なかったがどうやら吹雪いているようであった。「お客様、随分と長く考えられていたようですが」ウェイトレスの装いをした煤が口を開く、「ご注文はお決まりになりましたでしょうか?」少し間をあけてもったいぶった口調でこう返す、「地上のあらゆる食物は私に吐き気を催させるのです....」私の態度に業を煮やしたウェイトレスは不満げに暫く私を睨みつけたのち、小声で悪態をつきながら消えていった。悪意の煤が消失し張り詰めた空気が緩んでいくのに伴って地響きが起こり、部屋が崩れ始めた。「はい勝ち。このことは戦績として計上させてもらうから」とても清々した。心は僅かながらも晴れやかになり、今となって思い返すと一連の出来事がひどく滑稽で子供じみたことのように感じられ、途端に笑いが込み上げてきた。その衝動はもはや留まるところを知らず、私は腹を抱えて大笑いした。もう微笑むことは出来ないというのに。続けて手に取った書物はホラティウスの諷刺詩だ。あなたに向けて、ある一節に赤線を繰り返し執拗に引いておこう。「なぜおまえは笑っているんだ。名前を変えれば、その話はおまえのことを語っているのに。」

 

壊れた

精神は混迷の極にあった。かねてより私が密かにその内に神秘なるものの働きを認めていた、汚濁とか墜落とかいった事柄からは永遠に隔絶されていなければならないのであり、私が今までの試みの中でもただ二つだけ、深夜の異常な神経興奮によって神経の根を意のままに操ることができる状態にあって、血の滴る反道徳的な魔手でそれらを鬼畜の領域に引きずり込み、包み隠された秘密を暴き出し、欲得尽で慰みものにするどころか、いざ実行の段にあってはそれに手を触れることさえ躊躇われた二つのもの、これらは共通の源泉を見出すことができるのだが、とにかく私がその聖性の光輝によって言及することを、嘲弄することを躊躇い続けてきた、二つの神聖な領域とそれらに対する観念的願望があったと言っておこう。そして先ほどそれらが未曾有の侵犯を受けたということも。私はこの種の願望を今まで、たとえ錯覚的であるにせよ適切に満たす術を知らなかった。それはそこにおいて軽佻浮薄に−余りにも軽薄に消費されていた。私の知らない声で喘ぎ、私の知らない体勢で転げ回り、私の知らないやり方で花を愛しており、純血を失い墜落したすがたを神経の視界で捉えた途端に理性がそれを拒否し、脳髄が無秩序にかき回されるような感覚があった。それに感応して並々ならぬ憎悪がもちあがったが、続けて膨大な無気力と意気阻喪に見舞われ、客観的に見れば脈絡の全く不明瞭な、理不尽な癇癪に身体の支配権を委ねることだけは回避することが出来た。畏怖と憧憬の両極反応によって不安定ながらもある程度均衡が維持されていたといえる精神はなだらかな球形を描いていたが、既に引き裂かれ、蹂躙され、嫐られ、皮を剥がれ、去勢され、裏返しにされ、毒液が塗布され、引き延ばされ、磔にされ、殺害され、凌辱されてしまってはキィーーーーーーーーーーーーーーーーーーアとならざるをえない。かくして精神は大星型十二面体となった。きっと分からないだろうが、終わりなのである

日記 6/5 寝れない


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部屋の照明に痣のような陰りができていて気持ち悪いなと思った。焦げたというわけでもなさそうだし......はてどうしたものか。眼と鼻の先にある不可思議を放置してやすやすと眠りに就くことなんて出来ない、帰郷の途につく道すがら、あさっての方向に何か特別な興味を示した驢馬に対しては、好物を与えて本来の目標を思い出させてやるのが適切なように、ここでたっぷり睡眠をとって明日を平穏無事に乗り切るためにも早急に妥当だと思われる解を得る必要があった。そこで我らの偉大にして愚鈍な頭脳、貞潔な淑女にして粗野な大暴漢であるところのあそにゃちゃんはこのように考えた。すなわち人の手になる照明器具もそのいずれかの過程で生命を獲得しており、その意味で立派な一生体として見なすことができるのではなかろうかと。すると合点がいく。電子と正孔の移動は血流に対応し、それを統御する基盤は心臓、電気を接種することで絡繹たる生命活動が営まれているというわけだ。だからled照明にも疾患があり持病がある。故障とはいわば死のことであり、もちろん始まりもある。安寧があり動揺がある。苦しみがあれば楽しみもある。病めるときもあれば健やかなるときもある。満ち足りた幸福の風が船を進めることもあれば満身創痍の海原にて溺死することだってある。森羅万象を基礎づけるもの、それは生命にほかならない―そう理解した途端、部屋中の全てが私に語りかけてきた。床材は日々の恨み節を、機械類は各々のバッテリー残量が何%であるとか故障までの残り期間と保険の催促を、お菓子はその味やこだわりポイント等々。そこにCDの音律が加わるのでやかましいことこの上ない。中でも厄介だったのは本類で、本文をそのまま読み上げるものだからオーディブルのような感じだった。順序立てて一冊ずつ再生されるのであればもう少し楽しめたかと思うが....聞き取ることができた範囲でいえば、数式の部分は「tを際限なく大きくしたとき、f(t)はある値に収束し、その極限値はFである」というふうに、言葉で言い表すことができるように変換されていたのが印象に残った。特に決まりはないはずなのにどうしてお固い口調になるのだろう、くだけた口語でもいいはずだし、語尾ににゃんが付いても問題はないはずなのに。きっとここには何らかの恣意性が働いているに違いない。それに深く踏み込むことはしないが。大部の朱子語類の読み上げが未だ終わらず睡眠は蹂躙されてめちゃくちゃになってしまっているが、先ず其の言を行い、而して後にこれに従うという訓戒が論語に見えるように、ツイッターで寝ると呟いたからには頑張って寝ることにします。あとこれ書いてる途中で完全に故障して電気つかなくなってしまった。南無

 

夜中不能寝 鬱紆濛々纏肢体

黙独待裁割 鏡於水見現身容

又一人吾在 自恨焦身以怨嗟

怒瀨復俱流 依灰燼此憐哭泣

日来相与滅 景致兮無私無為

 

 

 

日記 5/31

何かの拍子にあらかじめ仕組まれた予定調和の覆いが外れて膨大な無があらわになり、あると信じて疑わない因果法則の力添えもあって、いずれそれが実現されると約束付けられていることが天の理法であると思われたところの明瞭で甘美な未来への展望が広大無辺な暗がりの中に没してゆくときのことを考える。諸々の否定的な面は差し置いて、驚嘆すべきはそこで初めて正当にも壮大な破滅の方策を講じることの権利が発見されたという事実だろう。

必然性の権威が失墜してより後、渾然一体として無秩序な纏まりだけが残されたが、その混沌たる巨大な集合に沈み込んだ前時代の聖遺物を掘り出すことに務める人がいた。聖遺物はひどく錆びついていてかつての輝きを失ってはいたが、感覚的な印象において浄福感を生じさせる何かがあった。繊細な、神秘的な面影を残していたのだ。この香気馥郁たる豊かな思想の源泉からどうして何も汲もうとせず、史料的価値以外の側面を見ようとしないのだろう?一つひとつの細部を組み合わせる仕方に着目せず、恣意的な想像力をもってするという安易なものの見方は、一つの主体、あるいは精神的共同体のうちに通底する内的な体験を記述する方法を持ち合わせていないのである。実に嘆かわしい。でもそれは別にどうでもいい。天秤の片側には希死念慮があり、もう一方を不滅願望が占めている。均衡を保っていることはまれで、常にどちらかへの傾きを示しているが、もののはずみで正反対に傾くときもある。莫大な虚無と積極的肯定との間にある緊張関係は移ろいやすくダイナミックなものなのである。

日記5/14

たっぷり睡眠を取ったのに快活に振る舞うことができねーっという明澄な悪夢の日々が存在しており、その惰性の繰り返しを離れたところから眺めているという感じになっております。しかし生活全般を俯瞰して見ているという感覚があるとはいえそれは意識を通して体験したことに他ならないので、目の前の生活の映像から暗い地獄の波が寄せては返すという流れが完全に構築されてしまったのでもう本当に何だこれはと言わざるをえない。太陽はよい。勝手に空に浮いており、まあまあすごめの明るさで地に光をもたらし、その姿をば見んとする者の眼を尽焼き尽くす。傍若無人っぷりにおいて太陽の右に出るものを知らない。だから太陽は良い。気分は比較的穏やかなんですけど気分以外は憤怒の殻にすっぽりと包み込まれているので、そのうち気分以外に芍薬の花が可憐な花を咲かせ、私は立つことを余儀なくされるのでしょう。長い間座り続けていたので急に立つと脳の髄がぐらりと揺れる。立ちくらみである。両足の感覚が戻り歩けるようになり通路左右の指示に従って進んで出口まで辿り着いた。もうこれで生活の映像を見ないですむ、ようやく悪夢から醒める時がきたのだ。扉を開けて劇場を後にする。外の世界は正午の太陽の輝きで満ちている筈だった。期待は大いに裏切られた。失意の中、私はもう喘ぎ声をあげることしか出来なかった。それらを携帯が音声認識したが、ツイッターの電波犯罪プロトコルによって無価値なカスの文章に書き換えられ、全世界に発信されている。そんな感じです。

誠惶誠恐頓首頓首死罪死罪

謹言